キエスタ ブログ
イエスの育ち
イザナギとイザナミの愛の秘儀
去る4月29日に『イザナギとイザナミの愛の秘儀』という対談セミナーを、古事記研究家の高瀬章照氏と一緒に開催させていただきました。
シュタイナー研究家としては、シュタイナーの宇宙論と日本神話で描かれた世界との関連に深く惹かれ続けてきたわけです。
その中でもイザナギとイザナミの関係は、古代ヘブライ民族が聖書の『創世記』で描いた原男女の関係性よりも、はるかにダイナミックでアクティブです。
聖書の『創世記』では女性存在は男性存在の付け足しのようにして誕生し、なおかつ「人類の原罪」の端緒を背負わされてしまいます。そして旧約聖書では男系の物語がその後も延々と続くわけです。キリスト神霊存在をマリア様が産むまでは・・・。
古事記では男神と女神が平等の力関係で登場し、神産み国産みを行ないます。なおかつ黄泉の国で主導権を持っているのは男神イザナギなのではなく、女神イザナミです。
私たち(つまり日本を選んで現在の地上に誕生してきた人間として)は日本神話の源流であるイザナギとイザナミの物語からどのように「愛の秘儀」を感得できるのか、と問うことができます。
イザナミは「黄泉の国」にみまかります。イザナギは「黄泉の国」に至ることができません。
イザナギは「黄泉の国」の境域から中を覗き見ただけで、恐れをなして逃げ出してしまうのです。そしてその後の神話史は、イザナギが産みだした神々に継承されます。(とは言え、後々にスサノオがみまかったネノカタスコクにオオクニヌシは秘儀参入するので、イザナギ直系の神々だけが日本神話を継承するわけではないのですが、この辺のお話はまた別の機会に!)
「愛の秘儀」に話を戻すと、イザナギが黄泉の国の境域から逃げ出さなかったならば・・・、そしてなおかつ、イザナギが再度イザナミと結ばれていたならば、その後の神話物語の展開は全く異なっていたはずなのです。
端的に言ってしまえば、イザナギはイザナミと共に無数の国産み・神産みを「愛の秘儀」を通してなし遂げ続けてきたにも関わらず、最後の最後でツメを誤り、「愛の秘儀」を完成できなかったのだ、と言えるでしょう。
そのような失敗によって、次の時代もしくは次の次元が展開していくわけです。これは、ヘブライ民族の神話「聖書」の中で人類の祖であるアダムとエヴァが楽園を負われたり、その子孫であるカインが兄弟のアベルを殺害したりという失敗に通じる物語展開と同じです。
シュタイナーの宇宙論の中でも、宇宙の進化、神霊存在たちの進化過程でルシファーとかアーリマンとかと呼ばれる悪魔的存在たちが、人類進化史に介入します。
つまり、神々や原人間の失敗や悪魔の介入がなければ、人類の進化は全く別様になっていたのだと考えられのです。
では、現代における「愛の秘儀」とは何なのかと問うことができます。
それは、神話の中で描かれた失敗や悪の介入を乗り越え、克服することが、現在の「愛の秘儀」の目的なのだと言えるでしょう。
具体的には、どのようにして私たちは、神々や原人間の失敗や悪の誘惑を乗り越えられるのでしょう。
このお話の続きは「スサノオの秘密」に関するセミナーで展開したいと思います。
パラレルワールドという迷妄
感覚界は物質法則が確固として支配していますが、霊的世界の法則はそうではありません。
人間には相応しくない霊界領域があるのです。
シュタイナーは以下のように警鐘しています。
「 身体は世界の調和に相応した仕方で、世界に組み込まれているので、感覚的知覚や通常の知的活動の範囲で魂が働くとき、その魂は、体が宇宙との調和を魂に託すことができるように、体に帰依している。魂が神秘的もしくは錬金術的な方向でこの体験から離れてしまうとき、体を通して獲得される宇宙との調和を失わないように、あらかじめ備えておく必要がある。
この用意を怠るならば、神秘的な道においては、宇宙との霊的関連を失うおそれがあり、錬金術的な道においては、真実と虚偽とを区別する能力を失うおそれがある。神秘家がこの用意を忘った場合、体との関連がより深まれば深まるほど、自己の意識の力が濃縮され、この自己意識に圧倒されて、自分の内部でもはや宇宙を共体験できなくなる。神秘家はこのことによって、人間にふさわしくない霊界領域へ意識して入っていくであろう(私は霊学についての著述の中で、この霊界領域を「ルツィフェル的」と名づけた)。」
ルドルフ・シュタイナー著/高橋巌訳『霊界から社会へ至る道』p205
ルツィフェル的霊界領域は、非の打ち所がないような世界として、安直なスピリチュアリストを魅了します。
その世界に入り込んでも今世では何も支障は起こらないかもしれません。
しかし来世において、その人は自己を失ったような人生を送ることになりかねません。
そのような霊界領域から地上のスピリチュアリストの魂に流れ込む概念のひとつが、パラレルワールドという迷妄です。
何故にパラレルワールドが迷妄なのかと問うことができますが、人間は論理的な概念構築をしなければ、ルツィフェルの世界から流れ込む直感の誘いを退けることはできません。
何故ならパラレルワールドはルツィフェルの創造した霊界領域に確かに存在しているからです。
その領域に入り込んでしまうと、人間の自我はその世界が迷妄だとは全く思えなくなります。
パラレルワールドで人間自我はどのようになるでしょう。
己れの意志を発揮しようとする力を失ってしまうのです。
或る状況下において、ひとつ選択肢を自分自身の意志で決断することに意味を失います。
そうすると人間は己れの意志決定に責任を持たなくなります。
人間が自らの意志で何事かを決意する時に、高次の自己は地上の自我に関与します。
己れの意志決定を放棄した人間は、高次の自己との繋がりを断ち切ることになります。
そうして人間は次の転生において、高次の自己による統合を失った自我としての人生を余儀なくされます。
高次の自己と地上の自我
高次の自己=ハイヤーセルフの働きは通常、地上の自我の意識には明るみになりません。
ハイヤーセルフは地上の自我が道徳的決断を迫られるような状況、もしくは死に瀕するような危機が身体に迫った瞬間に、自我が意識できるような強い関与をします。
その関与は啓示のように、また激しい直感のように自我に意識されます。
そもそも高次の自己にとって地上の自我とは何なのでしょうか。
神界に存在する高次の自己は、神々に浸透されているため、自己意識が希薄なのです。自分は自分であるという意識をほとんど持っていません。
自分は神そのものだ、あるいは、自分は神と同質だという意識に満ちており、神の意志に背いたり神の働きに抗ったりしません。
しかしながら地上の自我は感覚界の中で神の意志や働きを見失っているので、謂わば神の支配から自分は自由だという錯覚を抱くことができます。
そのような錯覚の中で人間は利己性を強化することが可能になります。
この利己性が地上の自我に、自己意識をもたらします。
高次の自己は、地上の自我を見守ることを通して、自己意識を獲得しようと努めているのです。
しかしながら地上の自我があまりにも利己性に堕してしまわないように、高次自我は、地上の自我に対して道徳的決断を迫るような運命的出来事を用意します。
もしくは死に瀕するような状況下で地上の自我がどのような決断を選択するかを、高次の自己は見守っています。
大天使ミカエルと黒魔術
大天使ミカエルは15世紀に天界にミカエル学院を作り、1840年代から天界でアーリマンと戦い、1879年からキリスト神霊の使者として人類を導いている、とシュタイナーは言及しています。
1879年にアーリマンは地上へと追放され、地上では電灯の時代が始まりました。
電灯の光は地上の人間の松果体機能を阻害することになりました。
松果体の発達の阻害により、人間は霊界をイメージする能力を破壊されたのです。
しかしながら、松果体のイマジネーション機能の阻害は、支配欲に駆られた人間が性的黒魔術を使って堕落する危険を防ぐことにもなりました。
もしもアーリマンが地上に追放されなかったら電灯がこれほどまでも地上を覆うことはなかった、と考えられるでしょう。
そして、もしも電灯が蔓延しなかったら人間は、15世紀以来の知性の発達により、論理的思考力によって自らの松果体を覚醒できたはずだ、と考えられるでしょうか。
もしもそうなっていたなら、人間は非道徳的欲望の発露にまかせて性的黒魔術を駆使するようになり、とめどもない支配欲に駆られたまま眉間のチャクラを行使するようになっていたでしょう。
眉間のチャクラが活性化すると他者の思考内容を見透し、また、霊界の法則をヴィジョンとしてイメージすることができるようになります。
つまり松果体が覚醒すると霊視能力によっていくらでも他者を操ったり支配したりできるようになるのです。
大天使ミカエルは当然ながら、アーリマンの促進する電気の光が地上の人間たちの松果体を阻害するだろうことを、予見していたことでしょう。
もしもアーリマンが人間の松果体を阻害しなかったとしたら、人間は霊界を霊視できるようになり、ルシファーの誘惑にますます陥っていたことでしょう。
成熟した道徳性を持たずに霊界法則を霊視できるようになった人間は、地上で行使すると悪業になってしまう霊力を地上で駆使するようになります。
そのようなルシファー的霊視能力の発露を防ぐために、大天使ミカエルはアーリマンを地上に放ったとも言えるのです。





