キエスタ ブログ
性愛関係が運命の転機となるとき
なぜ私を産んだのかという思春期の問い
人は思春期になるとアストラル体が独立するので、自らのアストラル体で外界を感受します。
アストラル体に映じる外界を通して、自我は、自らの内面も客観視しようとし、自らが地上に存在している意味と目的を問います。
この時期に人は「なぜ私を産んだのか」と親に真剣に問う場合があります。
そのような問いは非常に重要です。
この問いがその後の人生においても長期間に続く場合がありますが、この問いを親に向けている限り、その人の魂は全く成熟しません。
「親はなぜ私を産んだのか」という問いを、「なぜ私はこの親のもとに生まれたのか」という問いに上昇させることで、人の魂は進化します。
このような問いの上昇には、親の対応がとても大事になります。
このような問いが親に対して思春期以降も長期間続く場合、親はまず、我が子の受胎時を振り返る必要があります。
子どもの妊娠を知った時に、親がどのように思ったか、感じたかが、その子どもが思春期になった時の問いの根底に反映しています。
受胎の時に親の魂が歓喜や至福に満ちたのならば、我が子の問いは健全に上昇します。
しかしそうではなく、失望や反感や後悔や憤りなどの感情が湧き起こったとしたら、そのような負の感情を親自身が改めて払拭しない限り、「なぜ私を産んだのか」という我が子からの責苦が続きます。
受胎の時に負の感情にまみれたとしても、我が子が思春期を迎えた今、かつての感情とは別に、大いなる覚悟を持って、我が子の存在をありのままに肯定して受容する感情を改めて自分の中に創造することは、可能です。
そしてまた、思春期を超えてもずっと「親はなぜ私を産んだのか」という問いに苛まれ続ける人が、親の覚悟を全く期待できない場合も多々あります。
そのような場合その人自身が、大いなる覚悟を持って「私はなぜこの親から生まれたのか。私はなぜこの人間を親として選んだのか」という問いを改めて真剣に抱こうと決意したならば、その人は自分で自分の魂を親の呪縛から解放し、進化させることができます。
「思春期の精神的課題」では、思春期の問題点とその克服術をご参加の皆様と探求します。
お申し込みは以下からどうぞ。
イエスの育ち
イザナギとイザナミの愛の秘儀
去る4月29日に『イザナギとイザナミの愛の秘儀』という対談セミナーを、古事記研究家の高瀬章照氏と一緒に開催させていただきました。
シュタイナー研究家としては、シュタイナーの宇宙論と日本神話で描かれた世界との関連に深く惹かれ続けてきたわけです。
その中でもイザナギとイザナミの関係は、古代ヘブライ民族が聖書の『創世記』で描いた原男女の関係性よりも、はるかにダイナミックでアクティブです。
聖書の『創世記』では女性存在は男性存在の付け足しのようにして誕生し、なおかつ「人類の原罪」の端緒を背負わされてしまいます。そして旧約聖書では男系の物語がその後も延々と続くわけです。キリスト神霊存在をマリア様が産むまでは・・・。
古事記では男神と女神が平等の力関係で登場し、神産み国産みを行ないます。なおかつ黄泉の国で主導権を持っているのは男神イザナギなのではなく、女神イザナミです。
私たち(つまり日本を選んで現在の地上に誕生してきた人間として)は日本神話の源流であるイザナギとイザナミの物語からどのように「愛の秘儀」を感得できるのか、と問うことができます。
イザナミは「黄泉の国」にみまかります。イザナギは「黄泉の国」に至ることができません。
イザナギは「黄泉の国」の境域から中を覗き見ただけで、恐れをなして逃げ出してしまうのです。そしてその後の神話史は、イザナギが産みだした神々に継承されます。(とは言え、後々にスサノオがみまかったネノカタスコクにオオクニヌシは秘儀参入するので、イザナギ直系の神々だけが日本神話を継承するわけではないのですが、この辺のお話はまた別の機会に!)
「愛の秘儀」に話を戻すと、イザナギが黄泉の国の境域から逃げ出さなかったならば・・・、そしてなおかつ、イザナギが再度イザナミと結ばれていたならば、その後の神話物語の展開は全く異なっていたはずなのです。
端的に言ってしまえば、イザナギはイザナミと共に無数の国産み・神産みを「愛の秘儀」を通してなし遂げ続けてきたにも関わらず、最後の最後でツメを誤り、「愛の秘儀」を完成できなかったのだ、と言えるでしょう。
そのような失敗によって、次の時代もしくは次の次元が展開していくわけです。これは、ヘブライ民族の神話「聖書」の中で人類の祖であるアダムとエヴァが楽園を負われたり、その子孫であるカインが兄弟のアベルを殺害したりという失敗に通じる物語展開と同じです。
シュタイナーの宇宙論の中でも、宇宙の進化、神霊存在たちの進化過程でルシファーとかアーリマンとかと呼ばれる悪魔的存在たちが、人類進化史に介入します。
つまり、神々や原人間の失敗や悪魔の介入がなければ、人類の進化は全く別様になっていたのだと考えられのです。
では、現代における「愛の秘儀」とは何なのかと問うことができます。
それは、神話の中で描かれた失敗や悪の介入を乗り越え、克服することが、現在の「愛の秘儀」の目的なのだと言えるでしょう。
具体的には、どのようにして私たちは、神々や原人間の失敗や悪の誘惑を乗り越えられるのでしょう。
このお話の続きは「スサノオの秘密」に関するセミナーで展開したいと思います。
パラレルワールドという迷妄
感覚界は物質法則が確固として支配していますが、霊的世界の法則はそうではありません。
人間には相応しくない霊界領域があるのです。
シュタイナーは以下のように警鐘しています。
「 身体は世界の調和に相応した仕方で、世界に組み込まれているので、感覚的知覚や通常の知的活動の範囲で魂が働くとき、その魂は、体が宇宙との調和を魂に託すことができるように、体に帰依している。魂が神秘的もしくは錬金術的な方向でこの体験から離れてしまうとき、体を通して獲得される宇宙との調和を失わないように、あらかじめ備えておく必要がある。
この用意を怠るならば、神秘的な道においては、宇宙との霊的関連を失うおそれがあり、錬金術的な道においては、真実と虚偽とを区別する能力を失うおそれがある。神秘家がこの用意を忘った場合、体との関連がより深まれば深まるほど、自己の意識の力が濃縮され、この自己意識に圧倒されて、自分の内部でもはや宇宙を共体験できなくなる。神秘家はこのことによって、人間にふさわしくない霊界領域へ意識して入っていくであろう(私は霊学についての著述の中で、この霊界領域を「ルツィフェル的」と名づけた)。」
ルドルフ・シュタイナー著/高橋巌訳『霊界から社会へ至る道』p205
ルツィフェル的霊界領域は、非の打ち所がないような世界として、安直なスピリチュアリストを魅了します。
その世界に入り込んでも今世では何も支障は起こらないかもしれません。
しかし来世において、その人は自己を失ったような人生を送ることになりかねません。
そのような霊界領域から地上のスピリチュアリストの魂に流れ込む概念のひとつが、パラレルワールドという迷妄です。
何故にパラレルワールドが迷妄なのかと問うことができますが、人間は論理的な概念構築をしなければ、ルツィフェルの世界から流れ込む直感の誘いを退けることはできません。
何故ならパラレルワールドはルツィフェルの創造した霊界領域に確かに存在しているからです。
その領域に入り込んでしまうと、人間の自我はその世界が迷妄だとは全く思えなくなります。
パラレルワールドで人間自我はどのようになるでしょう。
己れの意志を発揮しようとする力を失ってしまうのです。
或る状況下において、ひとつ選択肢を自分自身の意志で決断することに意味を失います。
そうすると人間は己れの意志決定に責任を持たなくなります。
人間が自らの意志で何事かを決意する時に、高次の自己は地上の自我に関与します。
己れの意志決定を放棄した人間は、高次の自己との繋がりを断ち切ることになります。
そうして人間は次の転生において、高次の自己による統合を失った自我としての人生を余儀なくされます。




